2001年1月25日発行 株式会社ぶぎん地域経済研究所
ぶぎんレポート 2001年1・2月号 通巻52号

シリーズ・ひと 匠を語る
破草鞋窯 岸 道生 氏 (飯能市)

飯能焼の復活に命をかける 山田 博 (高校教諭・俳人)
 陶芸とは不思議なものである。伝統工芸であることは間違いないのであるが、一方できわめて現代的な芸術で、これほど伝統とはほど遠いものもない。それだけに千差万別、幅の広い芸術だ。値段や価値においても、陶芸ほど差があるというものもほかにはないだろう。素人にはなかなかその値段が見分けられず、鑑定家まで存在しているのはご存じの通り。
 会津焼、九谷焼、信楽焼、備前焼、萩焼、唐津焼、有田焼などちょっと思いつくままにあげても数種出てくる。関東地方に限定しても益子焼、笠間焼といった名前はすぐに出てくるであろう。それでは埼玉の焼物と
なると、残念ながら思い浮かばない。わが埼玉は焼物不毛の土地なのであろうか。
  実は江戸時代後期、飯能焼というのがあった。地元の土を使い、素朴ながら使い勝手のよい、焼物が焼かれていたのだが、惜しいかな、明治時代中期原窯を最後 にその炎も途絶え、長らくまぼろしの飯能焼きとして陽の目を見ることがなかったのである。その幻の焼物を、今日復元した男がいる。岸道生さんだ。
  名付けて破草鞋窯(はそうあいがま)。破れた草鞋(わらじ)のように、ぼろぼろになるまでは履き古されてちぎれはて何の役に立たなくなってしまったことを 指す。『碧巌録』(宋時代の仏書)ひもとくと、禅僧は、使い古し、破れの目立つ草鞋を十分に洗ったうえで、刻んで壁の下地に使ったり、堆肥に利用したり と、再び生命を与え蘇らせたと記してある。一度は途絶えてしまった飯能焼、これを再びこの世で蘇らせたいという岸さんの願いを込めて窯に命名したのであ る。
 岸さんは、昭和21年生まれ。本庄に生まれ、父の仕事の関係で県内各地に移り住んだ。浦和工業高校から東京電機大学に進んだ。伝統工芸によ くあるように、父親が陶芸家で、自然にその道を歩んだというタイプの人間ではない。物心ついた最初からこの道に入ったのではなく、大学卒業後は、電気機器 メーカーに就職、検査業務に携わった。小さい頃から指を使い、物を作る仕事に憧れていたためか、必ずしもサラリーマン生活に満足はしていなかった。版画を はじめ、さまざまな物に手を染めたが、そんな折、大宮で焼物の講座があることを知り参加、講師の安岡路洋氏(埼玉県立博物館資料評価委員)から飯能焼の存 在を知るのがこの道に入ったきっかけだ。
 飯能焼は、江戸時代後期、全国的に広まった民窯ブームにのって誕生した焼物の一つである。日用品として の陶器の需要の高まりに着目して全国各地に窯が興された。明治期に入り、磁器におされ、残念ながら途絶えてしまう。地元の人には幻の飯能焼としてでしか存 在は知られていなかった。生粋の埼玉っ子の岸さん、よしこのおれが飯能焼の復活を志すと決意し、早速会津本郷焼窯元宗像窯七代目宗像亮一氏へ弟子入りし た。修行するに際しては、会社を辞め、収入は得られないことを覚悟。脱サラとしては格好のいいものではない。焼物に必要な技能技術をまったくの一から学び はじめ、4年半の長きにわたって修行を重ねた。
 焼物を一つ作るのには実に多くの工程がある。修行では一つの作業を何度も何度も繰り返して行なう という。「同じことを繰り返すことによって、失敗しないようになるのだ」と説く。頭ではなく体で覚えなくては物にならない。修行に耐えることで、技術が磨 かれる。技術あっての物づくりなのだ。岸さんは、自らを陶芸職人という。陶芸というと、どうも芸術作品ばかり専門に作る作家先生というイメージが先行する が、このことに岸さんは一家言をもつ。1,2年作り方だけ教わり、その後いっぱしの陶芸作家気取りの人間が多すぎると嘆く。「基礎がろくに出来ていないの に作家を志す。文句をいったら、私のは芸術品だから実用には適さないといったとかこんな話は枚挙に暇もないのだから」
 修行を終え、埼玉に帰り、 使命感にも似た硬い決意をもって、陶芸の試作を手がける。飯能に移り、釜を興したのが昭和57年、岸さん35歳の時であった。岸さんが、この窯を開くにあ たって目指した方向は、あくまでも飯能の土を使った焼物を作ること、そして現代の生活に密着した製品を心がけること、この2点であった。最初から全国に名 が知られるようなお宝的な芸術作品を生み出していこうという気はもとよりない。この考え、それでは向上心がない、安易に妥協するのでないかという懸念を生 み出すかと思われるのは誤解というものであろう。いきなり芸術品を作るという姿勢がおかしいのだと持論を展開する。「作家を目指すことが先か、技術を磨く ことが先か、こんな当たり前の問いに答えられない人間が多い」とは、芸術気取りのまがい物を買わされ、桐の箱に飾ってよしとする世間の風潮も助長している ことであろう。長い年月、作り続け、それが世間から認められ、評価されるが順番というものだろう。事実、岸山野草鉢の作品は各種の『美術年鑑』では高い評 価が下されている。
 使ってはじめてそのよさがわかるのが陶芸だと、当たり前といえば当たり前のことを岸さんは教えてくれる。食器、酒の器、茶 器、花入れ、インテリア用品など、われわれが暮らしのなかで使う陶器を作ることに情熱を燃やす。持ったときの持ちやすさ、食べやすさ、飲みやすさ、洗いや すさ、収納しやすさなど常に日常使うことを意識し、作られる。デザインや色は、皿ならば料理を盛ったときにいかにおいしそうに見えるように、花器ならば花 が一段と映えるようにと調和を目指すことを重視する。使うことを常に考え、使う人の心を喜ばせる物を作っているのだ。
 焼物は、土を選ぶことから はじまる。全国にある名立たる窯元は、焼物にうってつけの土が取れるところだ。だが、いくら良質の土が得られるからといって、その素材を生かさなければ何 の意味もない。また悪い土でも技術がカバーすれば見事な焼物ができる。土と一言にいっても千差万別。さまざまな特徴を持ち、その特徴を十分に引き出して使 うことに職人としての腕のみせどころがある。備前や常滑は、必ずしも土は良くないのだそうだ。その欠点を技術が補い、全国的な焼物の産地として名を轟かせ ているのだ。岸さんの焼物は、土を取ることからはじまる。すべて飯能の土でまかなう。天日に乾燥させて砕き、水に溶かして漉し、婦人物を取りのぞいてから ムロで数ヶ月寝かせる。単に土の工程一つ取っただけでも複雑な巧妙な技が必要になってくるのが焼物作りである。
 ろくろ作りを見せていただいた。 饒舌だった岸さんが、一端ろくろに向かうと、沈黙し、集中する。厳しい目に変わる。粘土があれよあれよと見る間にとっくりに変わる。まるで不思議な手品を 見るように。若い男が恋人を慈しむように形を作っていくのだが、一瞬が勝負のわかれめなりだ。「単品物なら一つ作ってそれまで、セット物は同じ物を作らな ければならないのだから骨が折れる」とさりげなくいうが、それこそ体で覚えていなくては、同じものなど作れない。岸さんのロクロ作りの美しさには定評があ るところ、それを間近にみられることの幸せをひしと感じた。
 「今後は自分の表現したいものをどんどん表現したいい。今まで禁欲的に行なってきたので、ここらで少し新しいものに挑戦したい」と夢を語る岸さん。伝統をしっかり受け止めながら、革新的な作品を手がけることを期待したい。
 作品はここで求められるほかに、大宮ソニックビル県産品サロンや埼玉伝統工芸会館などで入手できる。

- 以上が山田 博さんの取材によりぶぎんレポートのシリーズ・人 に掲載された記事で、ここにご紹介いたします。 -

 

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