武州飯能焼考  著者  師岡貞雄

                                                         昭和59年3月6日発行より

 陶工 八右衛門の謎

 飯能焼原窯の開窯年代を天保3年(1832)年とする伝承については幾多の疑問がある。なぜならば原窯んq開窯時に

おける陶工、木村八右衛門の来飯が判明していないことである。双木家所蔵の宗門人別帳には八右衛門の名が出てくる が、店舗3年よりも13年も後の弘化2年のことである。この八右衛門の人別送り状が見つかっていないため、謎につつまれている。宗門人別帳には「尤送一札役人方へ取置申候 」という記載があるというが、残念ながらほかの記載は欠けていてこの人の来阪は不明である。

 また、飯能郷土誌には「天保3年、原窯開窯と伝えられる以前に、陶工八右衛門という者がほそぼそと飯能焼をしていた伝承があるが、定かではないが否定もできない」と書かれている。 

 この「ほそぼそと飯能焼をつづけた」という八右衛門と、弘化2年に来飯した八右衛門は同一人であったのか、あるいは同名異人だったのか「定かでないが否定もできない」というように、飯能焼の起源の謎を解く鍵として、今後の課題とすべきことのようである。」

 従来の説を否定するわけではないが、矢颪窯の調査のとき、陶片を対照しても、原窯初期のものと、全く同系の陶工の作

とみられるものがあったことである。特に飯能焼の特色である白絵付きの筒描きの壺、徳利など、双木家所蔵の陶器(原窯

)とあまりにも類似しているので驚いたのであった。

 51年に矢颪の岩沢重男氏の宅地で見つかった窯跡から、相当量の筒描きの陶片が出土した。これらのものは、土中に

埋没していた年数が長く、非常に古さを思わせるが、原窯跡の出土陶片は同じ筒描きでも新しいと思われるものである。

 このことは言うまでもなく開窯年代の差からくるもので、原窯は矢颪窯より後のものであると考えられる。私が矢颪窯の開

窯を天保以前とした理由は、窯元である矢颪村の名主、岩沢清衛門が天保13年に没しているので、それ以前に矢颪窯は

開窯されたと見るよりほかはないということである。あるいは、矢颪窯に従事していた八右衛門は、黒田領の御用を勤めた、

通称黒金子の番頭、金子清吉の勧めによって原窯に移ったとも思われ、この清吉が、矢颪村から真能寺村に飯能焼窯を

移す役割を果たしたものと推察するのは無理であろうか。

 なお、金子清吉は、黒田家御用人から、独立して事業家になったと考えられ、このことは、いまも残っている入間市の久保

稲荷神社の奉納碑に飯能の豪商仲屋清兵衛その外の連名中に金子清吉の名が刻まれており、建立年代は天保13年で、

このときはまだ清吉は金子姓を名乗っていることがわかる。金子清吉が双木姓を名乗っていることがわかる。金子清吉が

双木姓になった年代は判然としていないが、弘化2年頃に真能寺村名主双木氏から双木の姓を名乗ることを許されたとい

うことも考えられる。

 八右衛門は双木清吉の養子にとなって双木姓を名乗り、八右衛門は大原新平を養子に迎え、さらに新平は善七を養子にして孫の佐七が生まれたいる。いずれも陶工を迎え、飯能焼原窯の灯を保った来たのである。

 飯能焼の陶工系譜の中で、初期の八右衛門の技術は相当苦心したあとがみられ、風格がにじみ出ている。さらに幕末の

頃には、双木新平、川口恒右衛門などの陶工と絵師越塚小四郎などによる焼物の革新が見られるようになる。

 明治維新のあと、飯能焼の復興に、双木新平が招いたとされる山本卯平によって、事業はふたたび盛んになったように

思われる。

 なお三浦乾也、宮川香山らも山本卯平の養成で飯能焼の改革のために来飯したと思われる。

いずれにしても飯能焼にかかわってきた陶工が、記録に現れ、実名が記されtりる最初の人は木村八右衛門である。

 山本卯平(卯兵衛)

 

 

  近江国甲賀郡小川村の山本重右衛門の次男としてうまれた。ここは信楽の里である。幼くして江戸に出て、酒井肥前守の臣となり明治維新の際飯能に移り住んだ。卯兵衛を卯平と改めたのは、おそらく一介の町人なるときめたときであろう。

 近江国甲賀郡小川村の山本重右衛門の次男としてうまれた。ここは信楽の里である。幼くして江戸に出て、酒井肥前守の臣となり明治維新の際飯能に移り住んだ。卯兵衛を卯平と改めたのは、おそらく一介の町人なるときめたときであろう。

「陶器ヲヒサグヲ以テ業トス」とあるからには、陶器店を開いて生計を立てたものであろう。

 明治10年頃、双木善七と相計り、江戸から三浦乾也、横浜から宮川香山らの陶工を招いたということは、飯能焼の復興を

はかってのことだったと思われる。

 卯平については、いままでその出身地など明らかで無かったために、単なる陶工として、しかも飯能焼の初期にかかわった人として紹介されて今日に至ったが、昨年の夏のこと、私ははからずも山本卯平の肖像画を見せてもらった。この肖像画の裏に卯平の出身地と履歴、俳歴が記されていて、ここに新しい事実が判明したのであった。肖像画の持ち主は市内の山本さんである。いうまでもなく山本卯平の子孫である。

 明治元年5月に飯能戦争が起こり、飯能町は戦火によって大被害を受けた。飯能焼の窯に近い広渡寺も兵火のために焼失し、真能寺村だけでも26戸が焼かれたしまったという記録がある。このような状態で焼物生産もおそらく大きな打撃を受けたと考えられる。

 山本卯平が来飯したのは、おそらくその直後であって、卯平も信楽生まれであり、故郷を同じくする飯能焼の陶工たちと、かねてから交わりがあったものであろう。妻の多きを伴って落ちつき先の初五郎店へ住み着いたが、卯平も多きもともに数え歳

51のときであった。

 明治2年の宗門人別帳には次のように記されている。      

                            初五郎店

一、同宗同寺                旦那 卯兵衛

                       五十壱才

 此物儀村内新平厄

 介人二而同村八右衛           妻 多き

                           五十壱才

門請人二而差置

申候                     〆弐人内  男壱人                            原窯跡の 第1次調査の発掘

                                女壱人

 卯平には子供がなかったので近江国甲賀郡杉山村、杉本宇平治の孫、たけを養女として迎えている。

山本家は婿養子幸七が後継ぎとなり現代に至っている。

卯平はまた、俳句をたしなみ、俳名を古池亭蛙水と号し『ひらひらと高とびもせず蝶二つ』と詠んでいる。

よく知られた句であるが、今日まで飯能焼の陶工とされていたために、陶工の心情を詠んだ句とされてきたが、武士を捨て

名を卯兵衛から卯平と改め、町人となって永久の地と定め、蝶のように高飛びも望まず、余生を安楽に過ごそうという意味の

句であると見るよりほかはない。

卯平は明治34年11月15日、83才で没している。墓石は市内八幡町の広渡寺の山本家の墓所にあるが、法名・本然自覚信士、妻の多きは寿山貞量信女、施主、山本たけ、明治37年11月建之とある。

卯平は、冒頭の写真にみるとおり、武士の面だましいをほうふつさせるような人である。親友とみずから称して、軸の裏面に記した旭山居魯水の文は次のとおりである。

 此表装ノ肖像タルハ近江国 高賀ノ郡信楽ノ里ナル小川邑 ノ産二シテ山本重右衛門ノ二男タリ

 幼年二東都二至リ酒井肥前守殿の臣タリ明治維新ノ際武蔵高麗ノ郡飯能騨二住ヲ定メ

 陶器ヲヒサグヲ以テ行トス平素 風流二志ヲ深ク蕉風明倫協会ノ社員ト成俳譜ノ道二遊ヒ俳名

 古池亭蛙水ト号シ既二齢古希二向々トシテ壮健ノ翁タリ干時明治二十有一年ノ夏親友ナル旭山居    魯水誌

 また、原窯が最盛期あったと思われる文久3年(1863)8月、この地の領主であった黒田直和(黒田家九代)が、菩提寺である能仁寺参詣している。その折、真能寺村名主双木利八郎が記した日記には、殿様が村々を巡検するとき「もし土瓶屋ご一覧にも相成り候へば不都合につき」ということで、そこへの道普請を命じている。

土瓶屋とは原窯の屋号である。 何ごとも先例を重んじた時代のこと、つぎのようも書かれている。「尤この以前は土瓶屋これなく候反吐も」と、要するに先例がないと言うことだが、これ以前に黒田藩主が能仁寺に参詣したのは、天保12年(1841)のことで、この文章が正しければ、原窯の創業は天保12年以降ということになり、それから後の文久3年までの間ということになる。この文書から考えると、従来いわれてきた天保3年(1832)開窯という説が、10年ほど新しくなる。そして、明治21年につくられた『大日本陶磁器窯元一覧』という番付表には、大関の瀬戸、多治見を筆頭として、近くでは益子、松山、安中などが載っている中に、前頭四十四枚目に「武蔵飯能焼」が記載されている。

 飯能焼の最盛期は過ぎていたが、全国番付に載るほど飯能焼の名が通っていたということになろう。従来「明治20年」、「明治半ば」といわれていた廃窯の時期は、この番付標からほどない時期であったろうと思われるのである。

                                                                                                                                                 

川原毛久保窯跡

 当四月飯能村多う能す山之内、茶碗土有之候二付私共四人御請負仕、茶碗焼出可申段證文差上ケ候二付、

茶碗師江戸二而所二才覚致候得共いずれも不慥二而相調不申候、依之上方より呼下□□□□□願申播州御役

人様江被仰遺被下候得ハ、京都東福寺前二近江屋代助と申茶碗師御聞立候二而、給金貳拾両   下り

路金者たこ代被下江戸二而、私共方より三度之食事、干物野菜塩味噌薪等被下手伝御借二支度可仕段、御

役人中様御見遺奉承知候成程右之通リ二而㈺下し申度奉存候得共、當分金子才覚難成候二付何とぞ上方二而

御才覚被被下富十二月十日已前二半金ト利足加へ差上相残所来ル亥ノ二月中不残返上可仕尤右給金路金共、

金貳拾五両内外御渡シ被下候様二御願申上候、右之段被仰遺才覚調申候ハバ㈺下り候様二被仰遊可被下候

金銀之義故調申候義モ難斗由被仰聞奉承知候且又先月入月おとこ等迄被仰聞奉畏候、上方へ被仰遺相調候ハ

早速罷下り□□被仰付可被下候、右之金子如何様之損金等其外滞義有之候共少茂違背不仕候急度差上可申候為

後日仍而如件 

      享保三年戌八月五日

       飯能村  重次郎 ㊞

       同村名主 金兵衛

       同村名主 文左衛門 

       江戸八丁堀、 阿国屋平兵衛

     御役人中様

 この古文書は飯能焼に関連する文書として重要視されるもので、飯能市市史編さん室によって調査発見された。

古文書の所蔵者は、文書中に記載されている。飯能村名主、大河原文左衛門の子孫大河原文子氏である。

大河原家は本家、分家とも、飯能村の名主役を代々勤めた由緒ある家柄で本家の子孫は大河原重成氏である。

 この古文書から次の事柄が判明したのである。飯能焼(原焼)の開窯については、双木佐七の言によると、天保

三年(1832)となっているが、この開窯年代をさかのぼること約百年も前に、飯能村の名主たちが焼物生産計画を

計画していたということである。

 多峰主山の付近に良質の茶碗土(陶土)があることに着目した前期四名のものが、茶碗焼き出しを計画し陶工を

京都から呼び寄せようとしたときの願い書である。陶工が江戸で見つからないので、播州の役人の仲介で、京都

東福寺の前に近江屋代助という茶碗師がいるかとが判った。その人を呼ぶには、陶工の給金 貳拾両と京都からの

路銀五両、合わせて貳拾五両を用意しなければならなかったのである。貳拾五両といえば大金であり、すぐに用意

出来ないので、上方にて一時立替えてほしい。十二月十日までには、半分の金子と利息を支払い、残金は二月中に

支払いますという文面である。また三度の食事、干物、野菜、塩、味噌、薪なども生活必需品なども用意すると記載

されている。

御役人中様としてあることは、飯能地方に領地を持っていた黒田藩上屋敷ではなかろうか。支配地の産物は、その

村々の経済を豊かにするばかりでなく、黒田藩の財政にも関係することである。

当時、その人たちが金が都合できて飯能村に陶工を招いて、飯能焼の生産がはじまったかどうかは残念ながら確証

はない。

           平成6年特別展図録「幕末・明治の幻陶 飯能焼」飯能市郷土館

一、初めに

(一)飯能焼のイメージ

 〝飯能焼〟というと、現在、市内でつくられている陶器のことだと思われるかもしれないが、ここでいう「飯能焼」は、江戸

 時代から明治半ばまで焼かれていたもののことを指す。暗緑色や黄褐色の色調に、白絵土の筒描き(もしくはイッチン描)

 註(1)で梅や松、瓢(ひさご)などが描かれているものが特徴とされている。こういったものがすべてではないが、「古飯能 

 焼」というべき焼物のいイメージは、一般的にこういうものである。

 しかし、それを制作した原窯にゆいては、発掘調査が行われておらず、しかもそこが住宅地となってしまゅている現状で

 は、わからないことが多いのも事実である。ここでは、残っている資料やこれまでの研究報告をもとに、現在わかっている

 ことを紹介してみることにしたい。

(二)「飯能焼」

  先に述べたような特徴をもつやきものは、いわゆる〝飯能焼〟と呼ばれている。元来飯能の町の中で作られていたことが

 わかってきた。中でも、現在の八幡町(真能寺村原)にあったものと矢颪で焼かれたものの中には、〝同じような特色をもつ

 陶片がある〟と指摘されている。窯跡からの出土資料や伝世の経緯が明らかなものについては「原窯」、「矢颪窯」というこ

 とができるが、そうでないものについては、どちらの製品か区別しかねるものも存在しうることになる。学問的には、二つの

 窯跡出土資料を比較・分析し、それぞれの特徴を把握した上で、残されている完形資料について整理・分類するのが手順

 であるが、残念ながら現在(平成6年)の研究は、その段階まで到達していない。したがって、窯跡から出た破片や伝世品

 以外のもので先述したような特徴をもつものを、ここでは便宜的に「飯能焼」と呼ぶことにする。

 註(1)これまで白絵土の絵付けについて、「筒描き」とも「イッチン描き」ともいわれ、同じもののように思われてきた。

 しかし、正確にはこの二つは使う道具が異なる。「筒描き」は、竹筒製のものに口をつけて重力を利用して白絵土を出す

 のに対し、「イッチン描き」は、柿渋をひいた和紙で作られた(合羽)円錐状筒に真鍮の口を付け、袋を指で圧して白絵土を出すのである。原窯ではどちらが使われていたか定かでない。

 竹筒か合羽を使用したか実証したのは、破草鞋窯の岸道生である。

二、飯能の民窯

 (一)原窯

  原窯は、その操業規模、期間などの点で他の窯をはるかにしのぎ、また、資料の残存数も多いものである。したがって、

 追求の長いわけであるが、それらを紹介する前に、原窯で生産の灯が間もなく消えいうとしている頃の資料を見てみよう。

  明治政府は、明治18年(1885)の4月1日から6月20日まで、技術交流を目的とした展覧会(「繭糸織物陶漆器共進

 会」、略して「5品共進会」という)を東京上野公園で開催している。その際に提出された出品者の陶歴や先祖の来歴を記

 したものがのこされていて、埼玉県からは、秩父郡皆野村寄留の川澄喜太郎、比企郡松山町の横田治郎吉、同郡熊井

 村根岸豊三とともに、飯能町から双木佐七(原窯最後の陶工)が参加している。それによると「起業天保元年3月5日、

 高麗郡飯能村双木清吉ナルモノ、当時字愛宕ノ産原土ニテ発明シ製造品東京府地方販ナセシニ、後天保11年祖父新

 平伝習ヲ得テ製造ヲ為ス二、原土質弱二シテ堅焼ナザラルヲ患ヒ改良二注目シ、嘉永年間二至テ同郡苅生赤根峠ノ産

 土ヲ調合シ、試ミ改良製造スル所ナリ。明治15年ヨリ祖父ノ伝習ヲ得テ継続シ販売、東京府室町二丁目和田五平ヲ売

 捌人トナシ、飯能物産タルヲ以テ府内各商売へ卸売トナス。

 となっている。これは双木佐七自身が描いたものだけに貴重な資料といえるが、残念ながら、このときどのような製品を

 何点出品したのかが分かっていない。ただし、それを審査した塩田真が、その評価を記したものがあるので、それをみて

 みよう。

 「埼玉縣此縣ノ出品ハ皆陶器ナリ。(中略) 同國高麗郡飯能町双木佐七出品ノ陶器ハ、普通廉価ノ粗雑品ナリ。

 此地ノ土質ハ、砂分多ク頗ル火二耐ルノ功アリ、故二土瓶、鍋ノゴトキハ、用途梢廣シスト。」

 それほど高い評価を受けているとはいえないが「耐火度の強いもので、土瓶や鍋等の用途には向いている」

 というくだりからは、出品された製品の特徴をうかがい知ることができる。

 さて、つぎに原窯についての今までの研究成果を紹介していきたい。原窯については、古くは昭和14年頃の田口元氏や岸伝平氏による研究があるが、昭和37年に、飯能市文化財保護審議委員会によって行われた調査を基にした詳しい研究状況をみていくことにする。このときは、窯跡からの破片採集、双木利夫氏所蔵資料の調査、古老からの聞き取調査及び墓碑調査がなされ、詩人で文化財審議委員であった蔵原伸二郎氏によって報告書が執筆されている。

 まず窯場の様子であるが、窯場付近に昔から住んでいる二人の古老(当時80歳を超えたいたようっで、逆算すると明治初

 年頃から遅くとも10年代前半には生まれていることになる)の話をもとに記述されたいる。

 それによると、窯は八幡神社の西、現在の八幡町10番街区一帯にあり、7連房の登り窯(間口2.5m、奥行き20m)一基

 のほかに、ロクロ場、絵付場、素焼置場として使用された間口7mの作業場、粘土こし場、薪置場などの施設が5~6百坪

 の敷地に建ち並んでいた。開窯時期は店舗3年(1832)前後から明治20年(1887)までの55年間で、盛時には15~

 6人の陶工や絵付師、その他の工人が作陶に従事していたが、開窯時には双木佐七以下3人程度だったという。

 窯については異説もあり、岸伝平氏は9連房の登窯(幅5間=約9m、長さ25間=約45m)一基と3間(5.4m)5間の

 素焼窯一基であるとしている。また、明治16年(1882)原町の「徴発令物件調・建物調査」にみると、双木善七(双木佐七

 の父)の屋敷地には、居宅のほか、間口9間(焼く6.4m)、奥行2間半(約4.5m)の細工場をはじめ土蔵(6間=約10.9

 m×2間半)、物置2棟(2間×3間半と2間×5間)があったかとがわかる。さきほどの蔵原報告とは少し建物の大きさ等の

 点で違いがみららる。廃窯時とその数年前とで施設の状況に多少の変化があったのであろうか.

 土屋常吉氏の話によると、明治20年ニ閉窯したあとも尚10年間位窯は存在していたという。また当時の作業場(ロクロ

 場、絵付場、素焼置場など)は窯の中央付近から西よりに南面して建てられていたらしい。間口は7mほどのものであった。

 当時の窯場前景は、現在の双木本家の東20m、紺新の北10m、八幡宮の西10mのあたり、約5,600坪のところであっ

 た。広渡寺門前の道路に沿って窯があり、その西南に作業場、東南に粘土漉し場、南に薪置場があった。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  全盛時は15,6人の陶工、絵付師、その他の工人の家が広渡寺寄りにあったという。明治20年前後の廃業当時は、

 双木佐七氏外2名位の工人だけに減っていた。

 と飯能焼と白子焼(蔵原伸二郎)「飯能の文化財 第2集(飯能焼考)」にあるが私(岸道生)は次のように考える。

  その前に古飯能焼原窯の陶工たちの出身地の信楽について調べてみよう。

 

  カラー 日本のやきもの 10 信楽・伊賀   発行所 淡交社

        文/八木一夫・平野敏三

徳川時代

天正0年(1582)5月29日、徳川家康が織田信長に招かれて上方見物に上がり、泉州堺に滞在していた。

その日信長は本能寺に宿をとっていた。

  6月2日に本能寺に変があった。家康は孤立無援の窮地に陥り自決を図ったが、部下の本多忠勝にいさめられて思いとどまり、忍者服部半蔵の道案内で、木津、宇治の両川を渡り、間道伝いに信楽に入り、代官多羅尾一族に遇せられて虎口を脱した。稿が忍者の来援もあって、御斎峠(おとぎとうげ)を超えて伊勢の白子浜より海路三河に逃げかえった。と『徳川実記』にある。その陰の援助者は、家康の呉服御用をつとめ、後に海外貿易に乗り出し、百万の富をきずいた京都の茶屋四朗二郎であった。 

此の事変があってから信楽と徳川幕府との結びつく結果となる。

 すなわち漢永年(1632)4月、徳川三代将軍家光へ茶壺を献上した。それ以前にも既に御陽成天皇時代(1586~1611)

に行われている。

 これが制度化されたのは家光の時代で各地の大名や、民衆がどの程度に将軍の権力に服従しているかを試すために、御茶壺道中と称する大袈裟な行列を作らせたらしい。

 将軍の威勢を大名は勿論、下々の庶民に至るまで誇示しようというような示威的なねらいがあったのではなかろうかと飯田

文弥は述べている。

 次の家綱の時代には、一応幕府も安定したので簡略になった。とにかくそのお茶は宇治の上林家で調整したものである。

その当時厄介者扱いされていた関所、雲助、胡麻の蠅と同様にこの茶壺道中も嫌われた。

「ズイズイズッコロバシ胡麻味噌ズイ、茶壺に追われてトッピンシャ(戸を閉める音)」というわらべ歌生まれたのである。

 八代将軍吉宗の時代になるといわゆる享保改革によって茶壺道中のともなう弊風の改革、簡素化が企てられた。

 元文3年(1738)、甲府郡内領谷村の茶壺蔵での貯蔵も廃せられて中仙道を経て直接江戸城に運ばれたという。

二代目将軍秀忠が信楽茶壺2本(3弱寸斤入)を注文している。この茶壺が朝廷および将軍の御用品になったことに引きつられて諸大名もまた好んで信楽茶壺に宇治茶を詰めさせた。

封建時代のことなのでちゃつぼにも自ら区別を付けた。すなわち,献上茶壺は最も細かい土を用い、入念に上焼とした。大名用の物は並焼と称して土も粗雑なものである。この様式は、両者いすれも上部に耳4個をつけ、壺の中央以下は白色であった。俗にいう、信玄壺で耳付腰白と言っており、一般人用には、この様式は禁じられていた。

普通茶壺には小半斤入りから百斤入りまで色々の大きさがあった。

飾りとしては3個または4個の耳があり、肩に横線または波線を刻し、濁黄、淡褐色の釉薬が掛けられてあったが製品は上焼と並焼とは雲泥の差があった。

 なお、御用茶壺は、使用先により異なった所定の寸法があった。

これ等の壺は石野伊助が陶工に命じて作らせていたが文政年間に小川善右衛門もまた諸侯へ納入していた。100本の合格品を取るために1000本焼かねばならぬ。彼らにとって陶工、寸法等、苦労の多かったことと推察される。さらにまた利権争いまで起きている。それに反し茶入はその数も多く、北村壽四朗の推算では5000個以上だったという。

 長野ではこの茶入のことを「コキダメ」と言い大きさ10匁、20匁、形式は肩衝、飯銅、卵の3種があった。

前記したごとく、茶道具は、パトロンが大名であった伊賀焼に押されてもっぱら日用陶器に新たな進出をした。

 茶壺等を焼いた窯は既に現在の登り窯のような形式になっていたことは、この製品より判断できる。京窯の形式を真似て改造したのだろう。

 森田久右衛門日記によると、「窯の次第したの火はほそ又末の窯ほそく候。窯打ち用事則やけ土を以て打ち申」ある。

末の窯細くは、あるいは捨間(すてま)ようにも思われ、また「やけ土を以て打ち申」は「くれ」ー粘土を手一杯の大きさに不規則に丸めたものを一度本焼したものーを骨材として耐火粘土で形を作ってゆき、現在でも同様の方法である。

さて、日用陶器としては、

⑴ 梅壺、水壺、味噌壺、油壺、お歯黒壺、棺壺、徳利、せんべい壺、焼酎壺

⑵ 火鉢、焜炉 

⑶ 皿、行平、土鍋、摺鉢

⑷ 抹茶茶碗、急須、土瓶、水指

⑸ 花瓶、花立

⑹土器、油注、油皿の燈具類

⑺ 植木鉢

⑻ 神仏用陶器、香炉

等で徳川末期になるほどその種類数量が増加した。前記したごとく〈17世紀以降は世の中は安定した生活様式も変化し、

寝巻を着て綿をきて、種油の灯で夜を過ごすという華やかな(?)元禄時代を現出したのである。

なぜ斯様な日用陶器を大量生産を始めたか、勿論窯の改造も関係があったろうが、その窯に入れるための混ぜ焼きのためである。窯は10室となった。上の間では茶壺を焼き、水壺、梅壺、徳利等の荒物を下の窯で焼いた。京都、大阪という消費地を控えて間接取引の商人が増加し、問屋制度ができた関係で陶工自身販売していたのが、今や制作1本に絞れたわけである。

 日常陶器は個人的な趣味嗜好を余り必要とせず廉価を要求されるので、自然と多量生産へと向かった。

徳利は1合から石入までで並白釉(長石1斗木灰5升)、醤油入れは、赤褐色の釉薬(赤土5升、長石5升、木灰3升5合)を施した。またそれに商店名を入れた焼酎壺は3升から5升で白萩釉(瀬戸から伝わったもの。寛政年間のことである)に胴釉を流し」、すなわち縄すだれ紋様でありせんべい壺は湿気を含まぬように堅く焼き締めた。茶壺は内へ釉薬をかけない。掛けるとかえって湿気を呼ぶので裸の焼き締めで表面へ和紙を貼って使用した。煎餅壺は当時まだ硝子壺がなかったので需要が多かった。その大きさは、5寸から2尺くらいで裸またはいわゆる「あられ」といって長石粉を土に混入して水ぐすりを掛けた。梅壺、水壺、お歯黒壺、棺壺等を赤壺といい、いずれも赤褐色釉を掛け、またその上へ3カ所ほどに黒の流し釉を施した

(地薬は柿釉のため木灰を掛けるだけで黒くなる)。大きさは大小あり、お歯黒壺が最小で水壺は5合入りから1石入りまであった。信楽の大物生産として既にこの頃から技術的に大成されていたのである。この頃の壺はすべて「はぎ作り」であり、底が小さい。大きい底をつけると冷め割れが出来やすいからである。

 さて徳川時代も中期以降になると地域的に製品の特色が現れてくる。すなわち中心地の長野は、火鉢、擂鉢、紅鉢、団子鉢なども生産したが、その主たるものは壺類であり、大物作りの特徴がでてきた。これに対し神山は土瓶、徳利,急須、茶碗等、勅旨は神仏用陶器、土瓶、燈具、小原朝宮は小物であった。

このように製品の地域的集積を生じた原因は、長野は技術的な問題で土の製法は大物を作る関係上粗い。他の地方はだいたい水簸土を使っている。従って成形,焼成方も異なり、前者は練りつけといって紐作りの進歩した成形方法であり、立匣を用い、窯詰めの方法は天秤積みで、従って窯も大きく、ゆっくりと炊き上げてゆく。後者は手回しロクロで京都式であり、棚板、丸匣を使い、窯も小さく、焼成時間も早い。

大正8,9年ごろの勅旨の窯の大きさ大きい間で12尺から13尺、幅4尺2寸、小さい間で10尺に3若尺2寸、8室

 火前に匣1列、奥に板積み

以上が江戸時代の信楽である。

川口恒右衛門の出身地は信楽である。

神山は土瓶、徳利、急須、茶碗などの小物を作り手回しロクロで京都式であり、棚板、丸匣を使い、窯も小さく焼成時間も早い。とある。

 飯能焼の窯が19mの連房の大きさであったとは疑問である。

 ① 何故なら、窯の横から見て幅が1室あたり3mになる。火前に匣1列後に板積み5列ぐらいになる。そして高さは分からないが、7,8段になるであろう。奥行2.5m板で6枚分、小物作りの窯で1室あたりこれだけの大きさ、特に1室幅3mの窯は考えられない。窯の1室の幅が大きく成ればなるほど温度差ができ釉薬の種類が増える。原窯の釉薬の種類が少ない。そして最近発掘された窯(飯能焼〈古飯能焼〉)の遺物を参照からは匣は出たが棚板はまだ出ていない。そして板積みに使うツク(支柱)が出ていない。7連房分あるとすれば大変な量である。

 ② 細工場の大きさ間口7m、奥行き不明。この中にロクロ場、絵付け場、素焼置場などがあった。 

 私の細工場が間口7間、奥行3間の21坪であるが、ロクロ2台、そして乾燥棚、土室、ロクロを挽いた製品を固める室な  どを置くとせいぜいロクロ師2人でいっぱいである。

 ③ 窯に入れる製品(素焼)置場が必要である。これだけ大きな窯であると何万点にまるか分からない。これだけの量であるとかなり大きな建物が別棟でなくてはならない。

 ④ 窯から出した完成品を置く場所。

この窯を使うために必要な絶対的な設備が少なすぎる

なお、上の文を書いた後に平成6年特別展図録「幕末・明治の幻陶 飯能焼」飯能市郷土館の見落としていた明治16年(1882)原町の「徴発令物件調・建物調書」見つかりこの資料の方が正しいのではないかと思う。

徴発令物件調・建物調書」を見ると

双木善七(双木佐七の父)の屋敷地には、居宅のほか、間口9間(10.4m)奥行2間(4.5m)の細工場をはじめ、土蔵(6間=10.9m×2間半)、物置2棟(2間×3間半と2間×5間)があったことがわかる。

又窯を造るときは、使い慣れた、勝手の分かった大きさの窯を造るであろう。そして窯はかなり」小さかったであろう。

現在、推定できるのはここまだである。 破草鞋窯 陶工 岸道生

 

 

 

 

 

 

 

 

 

850259